オルタナティブ教育の陥穽と、私。

今日は、「オルタナティブ教育-国際比較に見る21世紀の学校づくり(永田佳之)」からオルタナティブ教育の陥穽という点について書きたいと思います。

 

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オルタナティブ教育の概略史として、オルタナティブ教育が広がりを見せ始めたのは1920年代。

そこで進歩主義教育協会の機関誌「プログレッシブ・エデュケーション」編集者のガートルード・ハートマンは、次の点を掲げている。

オルタナティブ教育は、

「子ども本位、生活重視、情操的側面の尊重、学校生活の民主的統制、ホリスティックな子ども観」という特徴を持つ。「その後、ヨーロッパでは公教育とオルタナティブ教育の結合が見られた。」

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現在、公共性の観点では日本ではアウトローなイメージがあるけれども決してそうではなく、公教育をパートナーとして把握する傾向にあるという。

しかしオルタナティブ・スクールのような自発的なアソシエーションにおいては、それぞれの場において醸成する「公共性」を社会の中で育むという視座が重要であると述べたうえで、この視座に対しての陥穽についても述べられている。

1.市場経済からの囲い込み:

アメリカのチャータースクールの事例。多様な子どものニーズに合った教育が展開される一方で生徒が「商品」としてみなされるケース。これはメインストリームの教育システムの外にいる子どもが市場の「恣意」に翻弄される危険性を示唆している。

2.国家からの囲い込み:

地域社会や市民を中心としたアソシエーションによる自己統治は国家にとっても望ましく、市民社会の自発的な活力を最大限に生かすことは国家戦略にとっての重要課題と考えられる。国家にとってはメインストリームで担いきれないニーズを満たす機能としてシステム内に取り込もうとする。例えば学校嫌いでフリースクールへ通う子どもに、学校復帰を前提に財政支援を行うなど。これは一元的教育観の表れである。

3.私的領域への閉じこもり:

オルタナティブスクールには市場システムとも国家システムとも距離をとる一方で、私的領域に閉じこもる傾向があるというものである。オルタナティブ教育は子どもの私的な時間・空間が強調されることがあるが、ともすれば子どもが社会的文脈から切り離して捉える教育が支配的となり、子ども本位の教育が自閉的に機能してしまうことがある。

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また、オルタナティブ教育と公共性の問題は2つの立場から主張されることが多い。

ひとつは専門家ではない市民の手では秩序ある統制がとれないという行政、政界からの主張

もうひとつは上からの規制をなくせば市民の自発性が生かされ理想的な学校が造られるという市民グループからの主張

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このような中、

取り込まれることも、閉じこもることもなく自立的な公共空間を形成できている事例から考える。

理想的なあり方は、

・人間の内発的発展を信頼し、それを助長するような精神を体現するキーパーソンの存在

・少数派の権利を擁護し社会に影響を及ぼすほどの組織力をもったアソシエーションが発達している(社会が思想、信条や主義主張が異なる学校ごとに支援協会がある。)

・こういった精神文化が活かされる社会構造の基盤となる規定が憲法レベル、省令、施行規則レベルで定置されている

ということである。

 

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日本では学校教育法に則ったオルタナティブスクールも存在するが、やはりメインストリームではないし「先生が教える。正しく覚える。正しく答える」、これが教育として存在します。

ここで、私がモンテッソーリスクールを立ち上げる意味を考えてみました。

子どもたちはやはり、現在の教育だけではない、自発的な思考・表現・活動の場が必要です。そしてそれは日本においてはまだまだ“民間”であり“市民レベル”にも達していません。

各家庭の方針のひとつに他ならないオルタナティブの存在ですが、

習いごとのように点在するモンテスクールや、レッジョ団体、シュタイナー教育を行う園などで育った子どもたちが体験したことを後世につなげ発展させていく、そのためには

まずはその環境を作ることが第一であり、

将来のオルタナティブ教育の公共性醸成につながること願ってスクールを立ちあげる。それが私が担っていることではないかなあ、と思います。